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モノ造り日記

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4月4日(水) 「マクベス」観劇 桜の幹はグロテスクだが美しい


■マトリックス症候群らしい…
 朝まで仕事して午前中に眠る。喉が渇くので、ビールを飲みながら仕事をするが、一階までトイレに下りていくのが面倒になるので、ビールはせいぜい二本くらいでやめ、ウィスキーの水割りになる。

 朝が近づいてくると、いつの間にかオンザロック・グラスとショットグラスも横に並ぶことになるのだ。アルコールには弱い体質だが、濃度を少しずつ上げていくと、こよなく旨い酒となる。飲みたくない日もあるので、アルコール依存症ではないらしい。

 午前八時を過ぎて酩酊状態になると、死んだように眠るのだが、十一時には目が覚める。遅くとも午後一時までには仕事の臨戦体制を整えておかねば、クライアントからの連絡に応えることができない。そんな睡眠不足な生活をここひと月ばかり続けている。仕事が詰まっているわけでも暇なわけでもない。微熱のせいでもない。

 羊水の中に浸りこんで、母親の子宮(マトリックス)から引き出されることを拒んでいるだけらしい。二度と入れない出口とは分かっているが、子供を授からなかった分、長いこと入り口としか認識してなかったツケが回ってきたのかもしれない。

■潮の香りたつ青山
 
午前中、三時間ほど眠ったところで、目が覚めてしまった。寝室に差し込む初夏のような日差しの眩しさと、南東の風に乗ってきた潮風の香りに、ビクッとして目が冴えてしまったのだった。

■青山墓地で花見する人たちとすれ違い、伊藤忠商事前にある割烹料理屋にて、うなぎをスタッフたちと食べる。

マクベス、いい席が取れたので、絶対に観てくださいよね」

 と、演劇フリークのスタッフSが、入場料の一万円と引き換えにチケットを渡してくれた。「でちゅう」で抽選に当たったらしい。チケットには「XC12」番と刻印されていた。

 仕事が暗礁に乗り上げて悩んでおり、そんなことしてる場合じゃなかったが、大竹しのぶと唐沢寿明は以前からナマで観たかったし、場所も南青山から歩いて行ける渋谷文化村の『シアターコクーン』だというし、半分渋々、半分嬉々として、夕方、劇場へ向かったのだった。

■舞台は… 残念ながら楽しめなかった。

 劇が始まる前は期待に胸が膨らんでいた。なんと言っても、前から二列目、真正面の席だったからだ。役者の汗と熱気が飛んでくる絶好の席で楽しめないわけはない、と…。

 し、しかし、残念ながら腹が立つほど面白くなかった。

 この「マクベス」はTVだけでなくいろいろなメディアで宣伝をしていたらしい。劇を観た後、ウェブページを検索すると、次のようなうたい文句が書かれていた。

日本を代表する演出家、蜷川幸雄が潜心の意を込めて新生「マクベス」を発表する。
 蜷川といえば1980年に発表した衝撃的な舞台「NINAGAWAマクベス」が世界的にも有名だが、今回はそれをも凌ぐ作品になることが蜷川本人の意気込みからも窺がえる。しかも、メインキャストは当代きっての名俳優、唐沢寿明と大竹しのぶ。その両脇を個性的であり、魅力的な面々が顔を揃えるとならば期待が膨らまないわけがない。
 
漆黒の仏壇を舞台に展開された、あの「NINAGAWAマクベス」。今、蜷川自身がその概念を打ち破り、まったく新しい「マクベス」に挑戦する。世界の蜷川がまた、動き出す。新たな伝説が今、始まろうとしている。

 ホントかいな? はっきり言って退屈だったっすよ。

 私みたいな素人があれこれ言っても仕方ないが、素人の勝手な思い込みや素直な反応が、コンピュータの世界だって変えて来たわけで、ここは一万円の観劇料を支払い、二時間半という時間を共有した者のひとりとして、ここでは、慮なく言わせてもらうことにした。

 私は「マクベス」というお話自体、恥ずかしながら知らないまま観たのだった。国内で最も注目されている演出家が選りすぐった芸達者な役者たち。大掛かりな舞台装置。丹念に仕上げられたメーク。それだけの時間と空間を提供してくれたことに感謝してやまないが、やはり、つまらないものはつまらない。主役二人にも他の誰にも、全く感情移入できなかった。

劇が終わって思った。

「やっぱり、本、読んどけばよかったかなあ。前もって筋立てを知ってれば、エピソードの変化にもついていけたかもしれないのかな?」と。

しかし、劇場をあとにする人たちは、表情が硬く、うつむき加減な人たちがほとんどで、同じような感触を持っているのではないかという気がした。

 台詞が多過ぎる気がした。素晴らしい台詞が随所に散りばめられているのに、別の言葉にかき消されてしまっている。もったいない。役者にあんなにしゃべらせたのでは、演技するな、と言ってるようなものだ。もう少し緊張感のある“間”が欲しかった。

 役者たちの演技はプロだった。特に、勝村政信と六平直政、高橋洋、そして三人の魔女たちは素晴らしかった。しかし、主役の二人からは、気持ちがこちらまで伝わってこなかった。それは役者の資質や演技に問題があるというより、脚本や演出にあるのではないか。

 演者のしゃべくりで惹き付けることができるのは、つかこうへいの演劇と、イッセー尾形の一人芝居と、お笑いだけになってしまったのか? ひと昔前の野田秀樹や最近の岩松了の演劇が非常に話題になり、その一方で非常に不評をかっているのは、言葉が多過ぎるからだ。言葉をおっかぶせるばかりで、役者は自慰的演技に走り、観客はその技術に感服しても楽しむことはできない。演劇の世界で評価されようと、つまらないものはつまらないのだ。

 演出家はいったい誰を意識した演劇にしたかったのか。海外で評価されても無意味でしょ。関係者たちのマスターベーション的芸術に付き合っている暇も金もない。演劇界は、現在のネットビジネス界と同じように人材不足なのかもしれませんね。


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