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2001年11月1日(木) 秋晴れ |
東京が好きなのは青空のせい
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■珈琲、また飲ませてもらうよ 京都の鈴木政勝氏より電話あり。珈琲豆はどんな種類で、どのような煎り具合をご所望ですか、と。タンザニアとマンデリンをハイローストより少し深く煎ったものをお願いしたい、と私はお願いした。11月5日の午後、そちらに行くよ。そのときに、これまでの、そしてこれからの話を聞かせてくれ、と伝え、電話を切った。 十年ほど前になる。開店したばかりのあの店に入ったのは偶然だった。珈琲豆を煎り、珈琲をたてる人が中にいた。店の名は『カフェ・ド・ガウディ』。場所は東京板橋区の住宅街。店主はまだ二十歳そこそこの青年だった。 会社づとめを辞めフリーになったばかりの私は、暇に任せて毎日通った。珈琲は旨かった。そのうち、同じ銘柄の同じ煎り方が表示された珈琲であっても、どこかが違うことに気が付き始めた。私は彼に聞いた。 「なぜ、今日のブレンドは押しが強いの?」 「えっ、分かりますか。コロンビアという豆の配分を多くしたんですよ。お口に合いませんか?」 「いや、旨いですよ。なんと言えばいいか、味も香りも際立ってきたし、苦味も酸味もギリギリのところで踏みとどまってる、というか、とても危うい気がします」 そんな風に私は感想を少しずつ話すようになった。彼は珈琲のこととなると、話が尽きなかった。豆の仕入れ方から焙煎方法、お湯の温度や注ぎ方、ネルドリップに使う針金の細工方法やネルの縫い方、ペーパーフィルタで美味くたてる方法、東京で珈琲の美味い店、などなど、嬉々として話してくれた。彼にとって最大の課題は、仕入れた豆をいかに活かすかであり、毎日、いろいろな方法を試みていた。それにも増して私をうならせたのは、無駄のない動きと、繊細な心遣いだった。 彼との出会いが、アントニオ・ガウディを知るきっかけとなる。図書館や本屋で資料を集め研究を開始した。調べるうちに、建築家ガウディを支援したエウセビオ・グエルという人物を知る。その息子たちの言動に感激し、新しく作った自分の会社に「グエル」という名前を付けた。それから十年以上の月日が流れている。 残念なことに、数年前、潔癖主義の彼は商店経営で悩み、店を閉じた。みな惜しんだ。閉店するという日に店を訪れたが、彼は何も言わず、いつもと変わらない段取りでいつもの珈琲をいれてくれた。 いつの間にか彼は東京からもいなくなっていた。京都でひっそり暮らしていると、風の噂で聞いた。 この夏、仕事で板橋に行く機会があった。帰路についたとき、そう言えば、彼の兄が近くで居酒屋をやっていることを思い出し、中板橋という駅で下車した。店はあっけなく見つけることができた。店に入ると、女将が懐かしく迎えてくれた。女将は義理の弟がやっている珈琲店を手伝っていたのだ。相変わらず元気が良い。京都にいる弟は少し元気を取り戻したようですよ、と言っていた。私は今、ここにいるんですよ、と名刺を置いて辞した。 数日たって、京都から電話がきた。彼からだった。兄のとこ訪ねてくれたんですね。姉から聞きました。え〜っとですね、もう一度やってみようと、やっと思えるようになったんですよ、という電話だった。 それから半年。何度か電話で話をした。この冬に『カフェ・ド・ガウディ』が京都の五条でオープンする。開店前に様子を見てくることにした。 ■文字を使ってわかりやすく表現できる能力がある人は少ない。読み手が理解する 顔色を想像しながら丁寧に話をするには忍耐が必要だ。何度も書き直しを強いられることだってある。何度書き直したとしても、 読者をジェットコースターに最後に求められるのは自然にスーっと ■午後1時前、玄関のチャイムが聞こえて目が覚めた。もう一度鳴った。しかし、起き掛けの体は反応できなかった。二度聞こえた鳴った。からテレビと見た。NHK朝の連続ドラマ『ほんまもん!』を見る。尼寺で精進料理を教わろうとする駆け出しの女性。 ■知らぬ間に圧迫される心理 隣接するモデル事務所の外壁修復工事が今日終わった。ビル全体が「白亜の箱」に変貌していた。圧倒的に美形のモデルたちが出入りする事務所だから、やはり建物の見た目も重要だ。にしても、南青山には白い積み木を重ね合わせたようなビルが増えている。『根津美術館』から骨董通りに抜ける道沿いに建造されているビルもそうだ。『Jill Sanders』(ブティック)を挟むように、両側に二棟が建造されているが、どちらも白亜の箱。『Blue Note』(音楽スポット)沿い、『IDEE』(家具屋)の建物がやが ■心理的な圧迫で時間が変わる ■通りには名前が欲しい 骨董通りから根津美術館を抜け、青山墓地に至る道は、青山通り(246号線)の南側をほぼ平行に走る。地図的な区分では「井の頭通り」の一部らしいが、ピンとこない。井の頭通りと言えば、渋谷から杉並の住宅地へと入り込む「京王井の頭線」に沿って走る道、というイメージがあるからだ。杉並の住宅地を想い起こすのでは、実態とかけ離れてしまうので、別に名前を付けたほうがよい。とはいえ、どんな名前がいいものだろう? とりあえず、「美術館通り」としておこう。 そもそも「骨董通り」という名称も、通り沿いで店を開いている骨董屋の店主が、つい最近言い出したものだ。昔から骨董屋が多かったことも事実だ。それには当然わけがある。根津美術館があったからだ。この美術館は、日本に古来から伝わる美術品が蒐集されている、いわば蔵である。館のいでたちも蔵風だから面白い。館内の庭園には数件の茶室が散在し、週末になると、茶会へと出席する和服に身を包んだ女性たちの姿をよく目にする。館の正門はその昔、骨董通り沿いにあった。館を訪れる趣味人たちのために、次第に骨董屋が増えていったのもうなづける。骨董通りの名付け親は、骨董屋『からくさ』店主、中島誠之助氏である。テレビ東京の人気番組「お宝鑑定団」ですっかりお馴染みの顔になった。 美術館通りの一方の起点は、骨董通り沿いにある『Papas』(洋服屋)のビルだ。この店を背に根津美術館の現在の正門がある南青山四丁目交差点までは、距離にして二百メートルあまり。青山墓地までは交差点から五百メートルほどで着く。墓地の交差点には名前がないが、ここがもう一方の起点だ。 この起点は十字路で、交差点をまっすぐに進むと外苑東通りにすぐに突き当たる。通りを越える橋もある。橋はトンネル構造になっており、中を車が走り、外を人が歩く。歩くと見晴らしは良いが、雨が降ると傘がいる。橋を渡ると、その先は乃木坂駅。 起点である青山墓地の十字路では、車は右にも左にも曲がれない。交差点に向かって一方通行だからだ。もちろん人はどちらにも歩ける。右に曲がっても左に曲がっても、両側に墓地が広がる。この通りは「霊園中央通り」と呼ばれている。細かな石が敷き詰められた石畳の道だ。墓地を左に抜けると青山通りに突き当たる。伊藤忠商事の本社ビルが目の前に見える。そこからは神宮外苑へ抜ける「銀杏並木通り」も近い。墓地を右に抜けて下っていくと、マンションや大使館がひしめく西麻布一丁目に入る。 さて、骨董通りの起点の話に戻ろう。そこから美術館方面を眺めると、少し下って上るため見晴らしがよい。骨董通りと道幅は変わらないが、美術館通りは人通りが少なく、エンジュという街路樹が整然と植えられており、骨董通りからこの通りへと足を向けると、肩の力が抜けてホッとする。その開放感を知ってか知らずか、犬を散歩させる人たちは、この通りを骨董通りに向かって歩く人は少ない。かといって、一方通行を守る必要はない。 骨董通りから美術館までは、ほんの二百メートルほどしかないが、まだ発展途上の感がある。人通りの多い骨董通り寄りには、お洒落な家具屋やブティック、ジャズ・スポットなどが、さすがに目白押しだ。有名人がお忍びで来る隠れ家のようなバーも点在している。縄文美術に傾倒した岡本太郎氏の住まいも裏手にある。現在は『岡本太郎記念館』として夫人が取り仕切り、喫茶部では夫人手作りのケーキを所望できる。骨董通りから少し離れると、学生寮や古いアパートもまだある。道沿いに一戸建ての人家はさすがにないが、すぐ裏手にはまだ残っている。 航空写真が欲しい、と思った。 |