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2001年12月10日(月) 朝から真冬日和/日赤病院って大丈夫?


●嫌なことを吹き飛ばしてくれる東京の朝の空●

■病院へ行く

この夏、左肩を不覚にも野球で痛めてしまった。悔しくてたまらず、二ヶ月ほど我慢した。しかし、痛みは引かず、仕方なく西麻布にある「日本赤十字医療センター」で看ていただいた。1ヶ月ほど前のことだ。レントゲンを撮ってもらうと、骨に異常はないが、骨に接している筋肉が炎症を起こしている。まあ半年もすれば自然に治りますよ、痛くなったらまた来てください、と医師は言った。

その後、様子をみていたが、引きつるように痛む場所が肩から肘まで広がってきた。痛みが襲ってくるサイクルも短くなった。仕事中に痛むのはつらい。病院に行くと、いつも腹立たしい思いをするので、極力避けてきたが、今朝はもう我慢できず、早起きして病院まで歩いて行った。徒歩で10分ほど。

真冬の空の下を歩くのは爽快だった。しかし、セメントの固まりの中でさんざん待たされ、気分が悪くなる。ある程度の待ち時間は病院だからしかたない。しかし、受付時間前に病院に入ったにも関わらず、診察してもらうまでに一時間以上待たされ、診察が終わっても、診察結果を渡されるまでに30分ほど待たされ、支払いをするのに30分ほど待たされ、痛み止めの薬を渡してもらうまでに薬局の前で40分以上待たされてしまう。これじゃ、病気と健康の狭間にいる人は、それだけで病気をもらってしまうのではないか。

病院とはそんなものなのかもしれない。とも思うが、医師の対応にも腹が立った。

医師は、痛む左肩をグリグリ回し、「これは長くかかりますねえ。あと1ヵ月くらいでしょう」と言うと、処方箋を書き始めた。え、診察はこれで終わり? と、ちょっと、カチンときた。

もう三ヶ月ほど痛んでますけど? あと、ひと月で直るんですか? 1ヶ月前の診察では半年かかるとおっしゃってましたが、症状は好転しているってことですか? 12月に入って痛みが広がってきたので、症状が悪化してやってきたというわけなんですけど。肩が痛み始めたのは夏を過ぎた頃で、一度看ていただいたとき、レントゲンを撮っていただき、骨には異常がない、とのことだったので、飲み薬も貼り薬も注射もなしで様子を見る、ということだった、と思うのですが。カルテには書かれてないんですか? …嫌な患者だ。 

「じゃあ、お薬を出しましょう」と医師は言った。

中島らもが書いていた「中年力」なるものを実行できず、少々自己嫌悪となる。中年力とは、先日、呑み助が置いていった集英社文庫「恋のからたち垣の巻」という田辺聖子氏が書かれた本の解説に中島らも氏が書いていたものだ。「恋のからたち垣の巻」は田辺聖子流に解釈された源氏物語だ。軽い読み物で笑えるが、とても深い。若僧には分からない世界。彼女の小説も中島らもの解説も、一読の価値あり。

以下、中島らも氏が書かれた解説文の抜粋。ただし、後段のみ。

 ……
 僕は金を積まれても二十歳にもどるなんってまっぴらである。ナイフの切っ先の上に立たされているような、あんなキリキリ痛い時代にもどることなど考えたくもない。
 その反対に、いまの自分の「中年具合い」というのはけっこう気に入っている。年々、ものがよく見え、よくわかるようになっていく気がする。自分が刃物だとすると、年々切れ味の鋭さは鈍っていくけれど、自分の使い方の技術は少しずつわかってきたような。いま三十八歳でこんなことを言うと、田辺聖子さんから、
「まっ、かわいい坊ややわぁ」
 といわれそうだが、自分がいかにまだ青いかということもこの頃では見えてきた。これはつまり「中年知恵」が日に日につき、「中年力」が増していっているということだろう。もしこれが年を経るごとに増していく力なのであれば、もっともっと年をとりたいと思う。
 ただ、力や知恵というものが年々増大していくのであれば、中年というのは一種の「力の怪物」みたいなものになるはずだが、現在はそうではない。(そういう人も政財界には少し入るけれど)
 これはどういうことかというと、「知恵」が「力」をコントロールする、力とともにその使い方の技術も向上していく、ということだろう。あるいは、もっと極端な言い方をすると、「力を封じ込める能力」、どうすれば刀を抜かなくてすむか、それが「中年知恵」の本質ではないだろうか。わめきちらし暴れまくっている人間よりも、いつでも抜刀できる姿勢を保ちつつニコニコしている人間のほうがはるかにこわい。力と知恵の均衡が結ぶ静かな微笑の奥に巨大な爆発力が封じ込められている、これこそ「理想の中年」像というものではないだろうか。力をみだりに使わないことがもたらす「やさしさ」というのは、若い人の優柔不断を誤解して言われるところの「やさしさ」とは対極に位置する、ほんものの「やさしさ」なのだろう。
 ではこの力は、もし万一使われるとしたら何に対して使われるべきなのか。僕はこう思う。中年の力というのは中年が自分の核の中に抱いている「こども」、これを守ることのためにのみ使われるべきなのではないか。現実の「こども」は「天使」などでは絶対にないが、ことばとしての「こども」の中には「天使の属性」のひとかけらがある。その輝いて美しいけれど何の防衛力も知恵もない、自分の中の「こども」を守るのが、中年の力と知恵なのではないだろうか。おおくの天才、偉人の中には、おおいなる幼児性と老成した知性が共存しているのはそのためであると思われる。
 そしてその好ましい共存は、田辺聖子さんご自身にも、その作品の中にも、如実に見ることができる。光源氏とヒゲの伴男(ともお)の構図というのはそのまま「ことも」と「中年」、「守られるべき光」と「守るべき力と知恵」の幸福な同心円をなしているのではないだろうか。

以上、抜粋終わり。

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